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プレーンソング

 もはや書を捨ててWINSにばかり通っていることで、いろいろな人が離れていったが、実はこっそり古典を丹念に読んでいるし、福田和也「昭和天皇」にも取りかかっているので、思うところは結構あるから、馬以外にも話したい事は山ほどあるのだが、話す相手が生憎(あいにく)いないので、こうしてたまに己が心に語りかけているのだけれど、ずっと好きだった保坂和志のデビュー作「プレーンソング」をやっと読んだことを、てめえに報告したい。

 なぜこれまで手に取らなかったかと言えば、ネコが出て来るからだ。俺はネコとか少年とか若い女とか出て来るのが嫌いで、特に恋愛とか青春とか苦悩とか人殺しとか自殺とかもダメ、さらに人の心理描写や、告白も嫌いなので、そも、大抵の小説は嫌いなのだけれど、保坂は、いい。とはいえ、やはりネコとか出されると読む気が失せてしまう。
 じゃあ、なぜ読んだかと言えば、主人公が競馬に行くからだ。

 この小説は、競馬仲間との話とネコの話が、交互に綴られていて、競馬のところだけ丹念に読み、ネコの部分は、ストーリーは追わず、「おっ」と思うところだけ抜き読みした、という寸法だ。保坂の事だから、その2つは最後までリンクしねえなとは感づいていたし、そも、いわゆる、ストーリーというものがない事も承知だったから、特に問題はないわけだ。

 とはいえ、そんな感じで一読した後、もう一度、今度はすべてをちゃんと読んでしまった。ネコの可愛さとかは、全然分からないのだけれど、やはり、文章が秀逸だ。何気ない会話や描写は、そこに何か深い意味を宿らせているわけでもなく、クールで知的だが、村上春樹的なハードボイルドを気取ったいやらしさもなく、ただ、「いる」ところが、いいのだった。何も起こらない、普通の日常がリアルでいい、のではない。もちろん過剰なドラマ性よりはましだが、そんな低レベルな、普通さ、ではない。虚無、悲観や楽観、客観や主観、そういうどうでもいいことが一切無い、そこが、いい。じゃあ、何があるのか。……無私かもしれぬ。

 保坂の小説は、本質的な意味で、明るく、元気がある。
 

by ichiro_ishikawa | 2008-08-21 01:53 | 文学 | Comments(3)  

保坂和志の慧眼


 小説は論文じゃない。朝起きたり道を歩いたりすることをわざわざ書く。そのこと自体が何かでなければおかしい。

 小説とは読後に意味をうんぬんするようなものでなく、一行一行を読むという時間の中にしかない。音楽を聴くことやスポーツを観ることと同じだ。いま読んでいるその行で何が起こっているかを見逃してしまったら小説の興奮はない。そこにあるのは言葉としての意味になる以前の、驚きや戸惑いや唐突な笑いだ。

 小説家は意味ではなく一つ一つの場所や動作や会話を書く。それが難しいのだ。読者もそう読めばいいのだが、やっぱりそれが一番難しいから意味に逃げ込む。

保坂和志(2008年1月13日付 朝日新聞より抜き書き)

by ichiro_ishikawa | 2008-01-14 16:44 | 文学 | Comments(0)  

マイブーム07晩秋


 最近ずっと保坂和志を読んでいるが、いい。
 著者近影ではいつも猫を抱いていて、かつ早稲田出身、という僅かな情報だけで勝手に「村上春樹くさい」と敬遠していたが、数年前にたまたま読んだ『この人の域』がすごくよくて、以来、ちょくちょく気にしてはいた。さらに『<私>という演算』とか『世界を肯定する哲学』、『小説の自由』、『小説の誕生』といった著書が、露骨に哲学・批評寄りの文学者という位置を示していたし、「感傷的な小説が大嫌い」といった発言も目にするにつけ、かなり信用するに至った。
 保坂は小説家だが、その主題は、「ある」と「ない」であり、常に「考える」を考えていて、たとえば「死」は「ない」から考えられない、と、誠実に考えている。最近読んだ『羽生』という批評では、文庫版あとがきを茂木健一郎が書いていて、案の定、ベルクソンを引用している小林秀雄を引用していたりと、やはりつながった。
画家は目があるから見るのではない。
目があるにもかかわらず見るのだ。(小林秀雄)

by ichiro_ishikawa | 2007-11-14 02:23 | 文学 | Comments(0)  

晩秋の日曜に心に去来した雑感

 世間的なコミュニケーションにおいては、軽い球をポンポンとキャッチボールしていくことが軋轢を生まず円滑にその場をやり過ごす上で大事なわけだけれど、当然のことながらそんなことばかりしていても、要領が良くなるだけで、人間の深みというか、豊穣さのようなものは全く増さないことは言わずもがなだ。
 軽くポンポンと投げたり受け取ったりできない、その人が全人格を賭したような重い球を、時間をかけて、じっくりと受け取りたいし、発したいと思う。その重さとは、本質的には人を明るく楽しくさせる、とてつもなくポジティーフなものだのだが、一見にはわかりづらく、極めてシリアスなので、やはり生活においては忌み嫌われる厄介なものなのだろう。だが、やはりその重い球のやりとりからしか真のコミュニケーションは生まれないのは事実だ。
 文学とか音楽とか映画とか美術といった芸術というのは、そういう重い球の最たるものだ。他人と共有しがたい、名状しがたい、あるものが、そこには刻まれている。俺が一番大事にしているものは、その交換不可能な、顕在化しにくい、じっくりと時間をかけなければ生まれもせず得られもしない、傍目には主観的と切り捨てられてしまうような、非常に不確かで曖昧だが、確実に存在するあれ、である。
 保坂和志の新刊『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』を読んで、心が共振したので、同じことをてめえの言葉で綴ったみた。

by ichiro_ishikawa | 2007-11-12 01:53 | 日々の泡 | Comments(1)