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「短歌について」小林秀雄(1934)


短歌について

1934年6月「日本歌人」(創刊号)

石川君から短歌について意見を徴せられましたが、何んとお答へしたらいゝか、實は意見らしい意見がある程、僕は短歌に親しむでゐないのです。
僕は「萬葉集」を好みます。それも色々讀んだ上での事ではなく、まあ讀んだと人に言ふ事の出來る歌集は、「萬葉集」一つしかないから、さう申し上げるので、この一事を以つてしてもまづお話にならない。従つて僕の短歌についての意見は、實際その道に苦労してをられる方々にはごく無責任な子供らしいものと思はれても仕方がないのです。
近頃の歌壇で、傳統的な格調の正しい歌をよしとするものと、自由に形式を破つて歌はうとする人が互に相争つてゐる樣に見受けます。くはしい議論は勿論僕にはよくわからぬのですが、たゞ僕の好むところを言へば、僕は傳統派です。
僕のわづかな知識によつてみても、歌壇の自由律主張者の歌がどれほど歌壇革命としての意味があるか疑問に思へます。第一廣く形式破壊運動としてみても、藝術の他の領域、例へば畫とか音樂だとか小說だとかの世界で現代烈しく行はれてゐる形式上の革命に較べれば、話しにならぬほど貧弱な中途半端なものと思はれます。革命と言つたつてたかゞ知れてゐる。どうせ反抗するなら何故そんな小さな穴の中で小さな叫びをあげてゐるか。それよりも傳統的な形式を生かさうとする方が、遥かに難かしい仕事であり、やり甲斐のある仕事だとまあ失禮かもしれぬが僕は思つてゐます。
短歌は、今日の文學的表現のうち最も傳統的な表現形式です。最も傳統的な表現形式であるといふ以外に短歌の特殊性があらうとも思へませぬ。それが厭なら他の藝術に赴くべきだ。若々しい反抗的情熱を中途半端な革命のうちで費ひ果すな、といふのが僕の意見であります。
藝術上の形式といふものが、人間の情熱の自由な表現の邪魔をすると單純に思ひこんでゐる人々へ、カントの說いた鳩を例としてジイドがどこかで書いてをりました。さういふ人達は、空氣がなかつたらもつと自由に飛べるだらうと考へる鳩の樣なものだ、といふのです。僕は短歌の形式は今日の情熱や思想をまもるには貧弱な文学形式だと思つてゐるが、その形式は鳩の群れで壊れるほど脆弱なものとは思ひませぬ



様々なる意匠を疑ひ伝統を重視する小林らしい考へであるが、このあと日本が戦争へ突入するなか西行、実朝へと赴き、つひには本居宣長を最後の大仕事にしていく、といふ事をどう考へるか。


by ichiro_ishikawa | 2019-07-04 23:19 | 文学 | Comments(0)  

小林秀雄 20代までの生活年表

まづ、ざつと30代に入るまでの歩みをまとめる。



[小学校]〜12歳

小2で親への恩返しを誓い、小6で第一次世界大戦の原因と現状を分析し、打つた男。


[中高(今の中高大)]13〜22歳

府立第一中学校(五年制、現・日比谷高)に入学。

第一高等学校(東京大学教養学部の前身)入試に失敗し一浪。翌年、第一高等学校の合格発表前日に父親を亡くす。合格し4月に入学するも、母親が肺患し鎌倉に転地療養させる。自身も盲腸周囲炎と神経症のため休学2年時に関東大震災。3年時に母親と同居を始め看病生活へ



[帝大(今の大学院的な)]23〜25歳

翌年、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。春、神田をぶらぶら歩いてゐると向うからやつて来た見知らぬ男に、いきなり叩きのめされる。秋、中原中也の恋人長谷川泰子と出会ひ、奪ひ、11月から同棲。10月には盲腸炎(腸捻転?)で入院・手術。


[卒業後]26歳〜

泰子との生活にピリオドを打ち関西に逃走。約一年を大阪、京都、奈良で過ごす(この時の回想が20年後「秋」に結実)。

翌年、東京に戻り「様々なる意匠」を書き、本格的に批評家デビューを果たす。





1902年(明治35)

4月11日、東京市神田区神田猿楽町三丁目三番地(現千代田区猿楽町二丁目八番五号)❶に生まれる


父、小林豊造

1874年(明治7)兵庫県出石郡の清水家に生まれ、のちに旧但馬藩の家老職であつた小林家の養嗣子になる。

1899年(明治32)、東京高等工業学校に付設された工業教員養成所の金工科を卒業し、東京高工助教授、御木本真珠店貴金属工場長を経て、日本ダイヤモンド株式会社を設立した。

欧米各国に学び、日本で初めてダイヤモンドの研磨技術を習得し、また蓄音機のルビー針を開発した技術者でもある。

母、精子

明治13年、東京市牛込区牛込北山伏町14番地の城谷家に生まれる。女学校を卒業し、茶の湯、生け花、琴などにも通じていたという。


1904(明治37)2歳

6月3日、牛込の納戸町にて妹富士子生まれる


1910年(明治43)8歳

作文「おやのおん」   


1914年(大正3年)12歳小6

秋、学芸会で世界大戦の原因から現状を演説


1915年(大正4年)13歳一中1年

3月 白金尋常小学校卒業   

4月 東京府立第一中学校(現・都立日比谷高等学校)入学

芝区白金今里町七十七番地❷に住む


1917年(大正6年)15歳一中3年

12月、父豊造、日本ダイヤモンド株式会社設立、専務取締役


1920年(大正9)18歳浪人

3月 府立一中(五年制)卒業。一高入試に失敗、浪人


1921年(大正10)19歳一高1年

3月20日 父豊造、四六歳で死没   

3月21日 第一高等学校(東京大学教養学部等の前身)合格発表

4月 第一高等学校文科丙類(文学)入学。野球部入部後、すぐ退部。マンドリンクラブ結成   

10月 盲腸周囲炎と神経症のため休学   

この年、母精子、肺患のため鎌倉に転地療養   


1923(大正12)21歳一高2年

9月1日 神田須田町❸で関東大震災に遭遇  

9月6日 船と徒歩で鎌倉に療養中の母に会いに行く


1924年(大正13)22歳一高3年

2月? 母と妹の三人で豊多摩郡杉並村馬橋226番地❹に転居  

6月10日 「一ツの脳髄」を書き上げる  


1925年(大正14)23歳帝大1年

3月 第一高等学校卒業     

4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学

この頃か   神田の本屋でランボオの「地獄の季節」に初めて出会ふ

4月初め 富永太郎を通じて中原中也を知る  

9月 中原中也の帰郷中に長谷川泰子に会う     

10月8日 大島に旅行(泰子は待ち合わせに間に合わず)、帰京後盲腸炎(腸捻転?)で入院・手術 

11月下旬 杉並町天沼❺に長谷川泰子と同棲  


1926年(大正15/昭和元)24歳帝大2年

鎌倉町長谷大仏前❻に住み、逗子町新宿の池谷信三郎方に仮寓したりする  

2月 「佐藤春夫のヂレンマ」を文藝春秋に発表(初の商業誌掲載)

10月 「ランボオI」を「仏蘭西文学研究」に発表


1927年(昭和2)25歳帝大3年

5月 初めての単行本『エドガー・ポー』を新しき村出版部より刊行

8月3日 大阪毎日新聞・東京日日新聞主催の第一回全国都市対抗野球大会が神宮球場で開催され、後の巨人の水原監督らとともに神奈川代表で出場。台湾の台北チームと戦う。(→「スポーツ」1959年1月)  

9月? この頃目黒❼に住む  


1928年(昭和3)26歳

2月 豊多摩郡中野町谷戸(東中野)❽に転居     

3月 東京帝国大学卒業           

5月25日 長谷川泰子と別れ、関西へ向かう❾

月末、大阪の日蓮宗の寺に宿坊する  

6月   京都奈良市の割烹旅館江戸三に宿泊、奈良市幸町の志賀直哉邸に出入り

9月 妹、富士子が高見澤(田河水泡)と結婚     

10月20日 母が関西へ     

11月17日 西村孝次と二月堂へ           


1929年 (昭和4) 27歳

1月末 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端155番地➓に住む

4月 「改造」の懸賞論文のため「様々なる意匠」執筆、改造社社員の深田久弥に渡す                 9月 「改造」の懸賞評論で「様々なる意匠」が第二席に

10月~ 『文学』(第一書房)同人に、ランボオ「地獄の季節」を創刊号から訳載  


1930年(昭和5年)28歳

4月 『文藝春秋』で「アシルと亀の子」発表、以後文芸時評の連載開始


1931年(昭和6)29歳

*この頃、母とともに鎌倉町佐介通二〇八番地に転居    (11)




by ichiro_ishikawa | 2019-07-04 21:26 | 文学 | Comments(0)  

年代別 小林秀雄の足跡まとめ

〜20代

「おやのおん」

一高(今でいふ大学)不合格、一浪

ランボオ

長谷川泰子〜奈良逃亡

「様々なる意匠」


30代〜40代前半(戦前)

「Xへの手紙」

「ドストエフスキイの生活」「歴史について」

「私小説論」

「作家の顔」

「思想と実生活」 

「パスカルの『パンセ」について」

『歴史と文学』

「戦争と平和」「当麻」「無常といふ事」「徒然草」「西行」「実朝」


40代後半(戦後)

「コメディ・リテレール」

母、精子死去

『モオツァルト』

「秋」

「ゴッホの手紙」連載開始      


50代

「中庸」

「近代絵画」連載開始

「感想」(ベルクソン論)連載開始


60代

「感想」(ベルクソン論)の中断

本居宣長の執筆開始

「考へるヒント」

岡潔との対談「人間の建設」  


70〜80代

本居宣長の完結



by ichiro_ishikawa | 2019-07-04 00:25 | 文学 | Comments(0)  

詳細年表 20代までの小林秀雄

「おやのおん」ランボオ、長谷川泰子〜奈良逃亡、「様々なる意匠」


1902(明治35)

4月11日、東京市神田区神田猿楽町三丁目三番地(現千代田区猿楽町二丁目八番五号)に生れる。
(高見澤潤子の『兄小林秀雄』によれば、本当の誕生日は三月末だったという。ちなみに同書によると小林秀雄の血液型はB型)
父、小林豊造は明治七年兵庫県出石(いずし)郡の清水家に生まれ、のちに旧但馬藩の家老職であった小林家の養嗣子になる。明治32年、東京高等工業学校に付設された工業教員養成所の金工科を卒業し、東京高工助教授、御木本真珠店貴金属工場長を経て、日本ダイヤモンド株式会社を設立した。欧米各国に学び、日本で初めてダイヤモンドの研磨技術を習得し、また蓄音機のルビー針を開発した技術者でもある。
母、精子は明治13年、東京市牛込区牛込北山伏町14番地の城谷家に生まれる。女学校を卒業し、茶の湯、生け花、琴などにも通じていたという。


1904年(明治372歳

6月3日、牛込の納戸町にて妹冨士子(後に高見沢潤子)誕生(高見澤潤子『兄小林秀雄』によれば本当は5月19日という)


1909明治42 7歳

4月、白金尋常小学校入学。この年、芝区白金志田町十五番地に住む


1910年(明治43)8歳

作文「おやのおん」 


1914年(大正3)12歳

秋、学芸会で世界大戦の原因から現状を演説


1915年(大正4)13歳 一中1年

3月 白金尋常小学校卒業

4月 東京府立第一中学校入学、同期生に石丸重治、木村庄三郎、正岡忠三郎、一期上に蔵原惟人、富永太郎が在学

芝区白金今里町七十七番地に住む


1917年大正615歳  一中3年

12月、父豊造、日本ダイヤモンド株式会社設立、専務取締役


1918年大正716歳  一中4年

一年上級の河上徹太郎を知る


1920年大正9)18歳  浪人

3月 府立一中卒業。一高入試に失敗し、浪人


1921年(大正10)19歳  一高1年

3月20日 父豊造、四六歳で死没

3月21日 第一高等学校合格発表

4月 第一高等学校文科丙類入学。野球部入部後、すぐ退部。マンドリンクラブ結成

10月 盲腸周囲炎と神経症のため休学

この年、母精子、肺患のため鎌倉に転地療養

初めて志賀直哉に会う(?)


1922年(大正11)20歳  一高2年
小説「蛸の自殺」(「跫音」)。志賀直哉に送り、賞賛の手紙を受取る


1923年(大正12)21歳  一高3年
9月1日 神田須田町で関東大震災に遭遇
9月6日 船と徒歩で鎌倉に療養中の母に会いに行く


1924年(大正13)22歳  一高4年
2月? 母と妹の三人で豊多摩郡杉並村馬橋226番地に転居

2月27日 荻窪の波多野完治宅で永井龍男と知り合う

4月8日 京都山科の伯父清水精一郎の招きで妹と上洛、従兄の西村孝次に会う

4月? 京都山科の志賀直哉の家に行く

4月? 奈良に行く(従兄と妹と) 

春? 神田の本屋でランボオの「地獄の季節」に初めて出会う?

6月10日 「一ツの脳髄」を書き上げる

7月 「一ツの脳髄」「青銅時代」

8月11日 「飴」を書き上げる

8月26日 京都の第三高等学校で、一高対三高の野球試合を観戦

8月27日? 京都山科の志賀直哉を訪ねる

9月 京都の富永太郎に『地獄の季節』の「別れ」の一節を送る

9月14日 「断片十二」を書き上げる

12月 石丸重治らの「山繭」に参加

*この年、堀辰雄に伴われて田端の芥川龍之介を訪ねる(?要調査)

*この年、青山二郎と知り合う


1925年(大正14)23歳  東京帝大1年

2月 「ポンキンの笑ひ」(『山繭』)

2月16日 志賀直哉へ手紙  

3月 第一高等学校卒業  

4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学

4月10日~5月1日 小笠原旅行、「紀行断片」を書く

4月初め 富永太郎を通じて中原中也を知る

5月24日 富永太郎とともに「山繭」脱退

夏  病床の富永太郎を見舞う

9月 中原中也の帰郷中に長谷川泰子に会う

10月8日 大島に旅行(泰子は待ち合わせに間に合わず)、帰京後盲腸炎(腸捻転?)で入院・手術

11月12日 富永太郎、肺結核により二四歳で死去

11月14日 正岡忠三郎、入院中の小林に富永太郎の死を告げる

11月下旬 杉並町天沼に長谷川泰子と同棲

12月21日 富永太郎の遺稿出版のため会合


1926年(大正15/昭和元24歳  東京帝大2
2月 「佐藤春夫のヂレンマ」(文藝春秋)
10月 「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(「ランボオI」)(「仏蘭西文学研究」)
11月 「富永太郎」(「山繭」)
*鎌倉町長谷大仏前に住み、逗子町新宿の池谷信三郎方に仮寓したりする
*辰野隆助教授に師事する              


1927年(昭和2)24歳  東京帝大3
1月 「志賀直哉の独創性」を書き、武者小路実篤に届けるが未発表に終わる

1月18日 武者小路実篤から書簡

5月 初めての単行本『エドガー・ポー』(新しき村出版部)    

8月3日 大阪毎日新聞・東京日日新聞主催の第一回全国都市対抗野球大会が神宮球場で開催され、後の巨人の水原監督らとともに神奈川代表で出場。台湾の台北チームと戦う。(→「スポーツ」1959年1月) 

9月? この頃目黒に住む

9月 「芥川龍之介の美神と宿命」(『大調和』)

11月 「『悪の華』一面」(『仏蘭西文学研究』)

12月 「女とポンキン」(『大調和』)


1928年(昭和3)26歳  奈良時代

2月 村井康男を通じて大岡昇平を知る。豊多摩郡中野町谷戸(東中野)に転居

3月 「Arthur Rimbaud」を卒業論文として東京帝国大学卒業

5月25日 長谷川泰子と別れ、関西へ向かう。
月末、大阪の日蓮宗の寺に宿坊する。
5月末 妹、富士子への手紙1(大阪から)「僕はとうとう逃げ出した...」
5月末? 河上徹太郎への葉書(大阪から)「今僕は大阪の天王寺辺のあるお寺にゐる...」
6月初? 妹、富士子への手紙2(大阪から)「大阪はいやな処だ。電車だけはいゝ...)
6月初? 妹、富士子への手紙3(大阪から)「人間が不幸になるのは自然に反抗するからだ...」
6月初? 妹、富士子への手紙4(大阪から)「奈良にでも住まうかと考へてゐる...」
6月初? 妹、富士子への手紙5(京都から)「あの女には心情といふものが欠除してゐるのだ...」
6月中? 奈良市の割烹旅館江戸三に宿泊
6月中? 奈良市幸町の志賀直哉邸に出入りする
6月中? 西村孝次、奈良の小林秀雄を訪ねる  
7月13日 妹、富士子への手紙6(奈良から)「九月に式をあげる相だね...」  
8月 志賀一家と箕島に海水浴に行く
8月末? 西村孝次と祇園乙部の妓楼に
9月 妹、富士子への手紙7(奈良から)「これから少し書け相な気がする...」
9月 妹、富士子が高見澤(田河水泡)と結婚
10月20日 母が関西へ
11月17日 西村孝次と二月堂へ
初冬? 妹富士子及びその夫高見澤への手紙


1929年(昭和4)27歳  様々なる意匠
1月末 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端155番地に住む

4月 「改造」の懸賞論文のため「様々なる意匠」執筆
4月?「様々なる意匠」を改造社社員の深田久弥に渡す

9月 「改造」の懸賞評論で「様々なる意匠」が第二席に入選し、同誌9月号に掲載される

10月~ 『文学』(第一書房)同人に、ランボオ「地獄の季節」を創刊号から訳載

12月 「志賀直哉」(『思想』)


1930年(昭和5)28歳  批評家デビュー

2月 

「からくり」(『文学』第五號

「横顔」(『詩神』)

ポオ「メルツェルの将棋差し」(翻訳、『新青年』)

ランボオ「堪忍」(翻訳、『詩神』)


4月 

「アシルと亀の子」『文藝春秋』、以後文芸時評の連載開始

「ナンセンス文学」(『近代生活』 )

「新興芸術派運動」(『時事新報』)


4月13日
新興芸術派倶楽部第一回総会に出席


5月 

堀辰雄、梶井基次郎、河上徹太郎らと『作品』創刊、ランボオ『飾畫』を創刊号から訳載。

「アシルと亀の子II」(『文藝春秋』)


6月 

「アシルと亀の子III」(『文藝春秋』)

座談会「既成芸術派検討座談会」(『近代生活』)


7月 

「アシルと亀の子IV」(『文藝春秋』)


8月 

「アシルと亀の子V」(『文藝春秋』)


9月 

「文学は絵空ごとか」(『文藝春秋』)

ランボオ「七歳の詩人」(翻訳、『詩・現実』第二冊)

座談会「最近文学の享楽的傾向に就いて」(『作品』)


10月 

ランボオ『地獄の季節(翻訳)』(白水社)「ランボオII」を収録

「文学と風潮」(『文藝春秋』)

「新しい文学と新しい文壇」(『婦人サロン』)

「アルチュル・ランボオ」(『ふらんす』)


11月

「横光利一」(『文藝春秋』)

「批評家失格I」(『新潮』)

「私信-深田久彌へ」(『作品』)

「近頃感想」(『讀賣新聞』)

「我まゝな感想」(『帝国大学新聞』)


12月 

「物質への情熱」(『文藝春秋』)

「中村正常君へ-私信」(『文学風景』)

「アルチュル・ランボオの恋愛観」(『詩神』)

「感想(毎月雑誌に...)」(『時事新報』)

*この年あたりに菊池寛、佐佐木茂索と知り合う
秋 一高生の木庭一郎(中村光夫)が来訪



1931年(昭和6)29歳

1月 

「マルクスの悟達」『文藝春秋』


2月 

「文藝時評(今月は...」『文藝春秋』

「批評家失格」「谷川徹三『生活・哲学・芸術』評」『改造』

「井伏鱒二の作品について」(発表誌未詳)


3月 

「心理小説」『文藝春秋』

文芸時評の連載が終了し、新進批評家としての立場を固める

「二月の作品」『作品』


4月 

「文芸批評の科学性に関する論争」「新潮」)

「室生犀星」『改造』)

「三月の作品」『作品』)


5月 

「谷崎潤一郎」『中央公論』)

「再び心理小説について」『改造』)


6月 

「『安城家の兄弟』」『改造』)

「心理小説」『詩と詩論』)

「もぎとられたあだ花」『時事新報』)


7月 

最初の評論集『文藝評論』(白水社)

「フランス文学とわが国の新文学」(『新潮』)

ボードレール『悪の華』の一部翻訳『作品』)

「辰野隆『さ・え・ら』」『讀賣新聞』)

「直木三十五の解剖」「「恋愛と暴露」について」「窪川いね子のオリジナリテイ」「文学的イリュージョンについて」「プロレタリアの星」「黒」「重盛の悩み」(以上『東京日日新聞』)(→「文芸月評I」に収載)


8月 

「弁明-正宗白鳥氏へ」『文藝春秋』

「困却如件-津田英一郎君へ」『時事新報』


9月 

「眠られぬ夜」『古東多万』


10月 

座談会「「作品」の会合」『作品』


11月 

「おふえりあ遺文」『改造』

「ポオ『ユレカ』(翻訳)」『文科(第二輯)』

ランボオ『酩酊船』(翻訳、白水社)


12月 

「純粋小説といふものについて」(『文学』第七號、岩波講座『日本文学』付録)

「横光利一『書方草紙』評」『東京朝日新聞』と『讀賣新聞』

*この頃、母とともに鎌倉町佐介通二〇八番地に転居



by ichiro_ishikawa | 2019-06-30 13:00 | 文学 | Comments(1)  

追悼 加藤典洋


『9条入門』(創元社、2019年)を電車の中で読んでゐたまさにその時、その著者加藤典洋の訃報に接した。
この数週間ずつと本書を繰り返し読んでゐた。奇しくも先日は加藤の故郷山形への往復に当たつてゐた。ちなみにBGMをユーミンからインストのパットメセニーに変へてゐたのはこのためである。
71歳。数少ない「無条件で買ふ」文筆家であつた。

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湾岸戦争時、多くの人が平和憲法の存在を理由に「反戦」の声をあげる中、

そうかそうか、では平和憲法がなかつたら反対しないわけか
(『敗戦後論』1997年)

と誰よりも強力に平和憲法の価値を見据えた。

敗戦直後の、

利口な奴はたんと反省するがよい。私は馬鹿だから反省なぞしない
(「コメディ・リテレール・小林秀雄を囲んで」1946年)

といふ小林秀雄に近いアイロニー。




by ichiro_ishikawa | 2019-05-22 20:41 | 文学 | Comments(0)  

青年と中年


自分が青年時代であつた頃のことを思ふと「青年時代は不愉快だ」といふゲーテのことばが、実に真実を語つてゐると感じられる。壮年になつてもつと愉快になつたわけではないが、少なくとも青年時代よりはウソのつき方もうまくなつた。青年時代は、イバラの森を裸で歩いてゐるやうなもので、生傷の絶え間がなかつた。着物を着ればよささうなものを、あらゆる着物は虚偽だと信じてゐたから、裸でゐるよりほかはなかつた。そして青年時代の唯一の誇りは「自分は決して人に理解されない」と信じてゐたことだ。
だから、青年の気持ちはわかる、とか、学生諸君の気持ちはわかる、とか言ひ暮らしてゐるお人よしの大人たちを見ると「可哀想に。かれらの唯一の誇りまで奪はうとするなよ」と忠告してやりたくなる。
かういふ点では、今も昔も、青年といふものは格別に変はつたわけではないのである。

発掘原稿「現代青年論 〝弱い父親〟への反逆」三島由紀夫(1969年「京都新聞」「新潟日報」「北國新聞」など。全集未収録)
「新潮」2019年5月号より抜粋


ここで言ふ青年とは、三島の時代から20年後に、長渕剛「お家へかえろう」(1990)において「敗戦直後に生まれた40代は、つまらねえ日本的資本主義を作っちまった」と歌はれた、『Live '89』において「誰それがくっついた、はなれたのってニュースでやってる」「いい歳こいた四十過ぎのおっさん」と語られた、いはゆる団塊の世代。

彼ら「青年」は、中年になつたとき、自らが「あんなおつさんにだけはなりたくない」と指した、まさにそんなおつさんになつてゐた。

そして、新人類から、バブル世代、団塊ジュニア、ロスジェネ、悟り世代、そして現在の平成くんまで含めて、その時々の青年は、必ず「自分は決して人に理解されない」との誇りをもつて不愉快で、のちに例外なく「今時の若者は」「俺が若い頃は」と漏らす中年に成り下がる。

それは、なぜか。人生の重力。
扱ふべきテーマはこれであらうと考へてゐる。



by ichiro_ishikawa | 2019-05-03 15:01 | 文学 | Comments(0)  

ユーモアといふこと

人間にとつて、もつとも重要かつ必要なのは金でも名誉でも健康でも芸術でもない。
何だかんだ言つて、ユーモアである、
といふことに思ひ至つてゐる。

ユーモアがあればあらかたうまくいくのではないか。生老病死といふいはゆる四苦、細かくは人の世でのあれこれといつたもの。これらから逃れる術はないが、ユーモアをもつてすれば、乗り切れる。

たとへば他者と大げんかし罵詈雑言を浴びせあつてしまつても、その文言がもしものすげえおもしろいものであつたら、結果、和解できるのではないか。
臨終間際に、ものすげえおもしろいことを思ひついたら、幸せな死を迎へられたことにならないか。

ボルヘスのエッセイ集『続審問』を読んでゐて、さう思ひ至つた。
たとへばオスカー・ワイルドを形容する文はかうだ。

ネクタイと比喩で人を驚かさうといふくだらない目的に身を捧げた紳士


ことの最後に決定的な言葉を口にするために存在する人物



とてつもなくつらいことがあつたとき、この言葉を思ひ浮かべると、苦悶の表情は薄ら笑ひに変はるだらう。





by ichiro_ishikawa | 2019-04-25 11:14 | 文学 | Comments(0)  

中島岳志著『保守と大東亜戦争』


中島岳志著『保守と大東亜戦争』読了。

良書。


序章が詳しいまとめになつてゐて、

第1〜4章で具体を証し、

終章で改めてまとめる、

といふ、読み返さずとも一読で内容が整理、定着するといふ構成もよい。


内容の骨子は、

保守とは、右でも左でもなく、

自身の不完全性を認め、伝統や良識を信用し、

時代や時局に即した漸次的改革を求めていく、

といふ中庸の精神のこと。

かうした保守は、

戦中の軍国は無論、戦後左派、その反動的ナショナリズム、全てを同根のものと否定する。


おそらく小林秀雄の

歴史、常識についての考へ、

無私、中庸の精神の重要といつたことと

同じことを言つてゐる。


すごく当たり前のことだが、

人はえてして当たり前に耐えられず、

極端に傾く。

保守とは、当たり前を保ち守らんとする能動的な動きである。






by ichiro_ishikawa | 2018-08-18 10:12 | 文学 | Comments(0)  

小林秀雄の学生年表


年譜に拠れば、小林秀雄は25歳で大学(東京帝大仏文)を出た。昔、この事実を知つたときは、小林はだいぶ浪人したかダブつたんだな、と思つたものだ。
ちなみに俺も一浪二留をして大学を出たのが25だつたので、小林と同じコースといふことで、自分を慰めていたものだ。

しかし違つた。戦前と戦後では学制が違つた。
結論から言ふと、小林は一浪しただけであとはストレートに卒業してゐた。
戦前は、今風に簡単に言へば、
小学6年→中学5年→高校4年→大学3年。
であつた。トータルの修学年が2年多い。
基礎教養を学ぶ期間を長くとつてゐる。
旧制の中学生は今の高校生で、旧制の高校生は今の大学学部生だ。旧制大学生は今の院生。

小林の年譜を見てみる。4月生まれだから分かりやすい。
年齢はその年度の満年齢を記す。

1902年(明治35年)4月、生誕
1915年(大正4年)3月、白金尋常小学校卒業=12歳
1915年4月、東京府立第一中学校入学=13歳
1920年(大正9年)3月、卒業。第一高等学校受験、不合格=17歳
1921年(大正10年)3月、父豊造没=18歳
1921年4月、第一高等学校文科丙類入学=19歳
1925年(大正14年)3月、卒業=22歳
1925年4月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学=23歳

1928年(昭和3年)3月、卒業=25歳


中学(今の日比谷高校)を出て、高校受験に一度失敗してゐる。

今で言へば大学受験失敗。で、一浪の末、19歳の年に高校(今で言へば東京大学)に入るのだが、直前に父が亡くなつてゐる。


成人前、大学前に父を亡くしたといふことは、よくよく考へる必要があらう。

母親思ひ、家族を食はす覚悟、さうした強さと優しさの源泉はこの経験にある。


で、1929年(昭和4年、27歳)に「様々なる意匠」だから、入団1年目で3割30本みたいなもの。


もつともすでに大学時代から翻訳や依頼原稿をバリバリ書いて、女を養つてもいた。

しかもスポーツもブリバリで、マンドリンなども弾く、かつ顔もいい、喧嘩も強いと、人間力がハンパでなかつた。

父の逝去の2年後に見舞われた関東大震災での復興尽力ぶりは、3.11の吉川晃司を思はせる。屈強な男である。さういふ男が文学をやつたといふのが、我々にとつては幸いだらう。世が世なら間違ひなくロックンローラーであつた。





by ichiro_ishikawa | 2018-05-18 09:50 | 文学 | Comments(0)  

パタパタうるさいノートPC


「それ前も聞いた」と言はれさうだが、
会議にノートPCを持ち込むのは禁止したい。

メモしてゐるのだ。終了と同時に議事録が作成できる。
といふことなのかもしれない。

しかしメモはペンで紙に書くべきだ。
いやメモも不要。話し合ふ、考へることが目的だらう。
議事録なんて最もいらない。
あつてもいいがそんなに急がんでも。

ノートPCがいけないのは、パタパタうるさいからだ。
あの入力の際のパタパタといふ音は、思索という行為を妨げる。
さらに、ノートPCを操つてゐる輩からは、人の話を聞いてない感が出る。
ブラインドタッチで顔を上げてゐたとしても、どこか心ここに非ず感が出る。
実際、心は入力(メモ)に向いてゐるからだ。
心は顔やオーラに出る。

ノートPC(メモ)禁止にすれば、
すべてをてめえの頭(心?)にメモライズせざるをえない。
グッと前傾姿勢になり、会話や議論に緊張感がみなぎる。
結果、名案が出やすい。コミュニケーションが濃くなる。
メモなりまとめは会議後、一人でやるがよい。

小林秀雄は取材や公演の録音を禁じた。
話し言葉を勝手に文字に起こして流布されるのを嫌つたのではない。
いや嫌った。てめえは物書きだから、書き言葉しか信用してほしくないといふことはあつた。
しかし、それは瑣末なことで、
話す際は何よりも今そこに居るその人とのコミュニケーションを欲したからだ。
テープレコーダーに向つて話をすることはご免だ。
君に伝へたいのだ。テープを切り、ペンを置きたまへ。






by ichiro_ishikawa | 2018-05-11 13:07 | 日々の泡 | Comments(0)