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忘れ物と俺


俺が忘れ物王であることは、度々書いてきたし、もはや周知の事実だが、実は小林秀雄もさうであつた。

といふことを、新潮社の「webでも考える人」で連載中の池田雅延「随筆 小林秀雄」第55回にて、改めて知つた。池田雅延は「本居宣長」の編集者。

小林秀雄が、加齢で集中力がなくなつて物忘れをしなくなたつた、といふエピソードを紹介してゐる。
ふつう逆かと思ふだらうが、さうではない。集中力があるときは、ある事に集中しすぎて他のことをポンポン忘れる、といふのが小林秀雄の言はんとする意だ。
俺の物忘れもこれであらう。俺の集中力は衰へてはゐない。むしろ高まる一方である。と、忘れ物をするたびに自他に言ひ聞かせてゐる。


余談だが、最近小林秀雄を書いてゐないのは、この連載と「新潮」誌の連載、大澤信亮「小林秀雄」が現行動いてゐる以上、書くことがないからだ。
これまでも小林秀雄関連の連載や本は出続けてゐたが、上記二作以外は、読むと反論したい気も起こることがしばしあり、むしろ書く必要に駆られたものだが、件の二作には強い同意と新たな驚きしかない。
「小林秀雄」は第1部が終了し休載中。第2部のスタートが待たれてゐる。

by ichiro_ishikawa | 2019-04-18 14:51 | 日々の泡 | Comments(0)  

もののあはれを知るとは


科学的に世界を理解すること、道徳や倫理を基準に人間を把握することだけでは「はみ出てしまふ」、人間の何とも言はれぬ情緒をこそ、大事にしたい、そこに文学や歌の真髄がある、そこにしかない。
といふのが、もののあはれを知る、だ。
そこには科学も経済も倫理も、哲学も宗教もすべて含まれる。仏教もキリスト教も道教も神道もすべて。
もののあはれを知ることが本物の知性である。
といふかもののあはれを知らでは科学も経済も哲学も宗教も絵空事に堕す。
もののあはれを知るといふのを換言すれば「ああ、人間…、ああ、人生」である。

といふ当たり前の誰もが感じてゐることを、源氏物語と和歌の中に、いかにもののあはれを知る心がはたらいてゐるかを見出して実証したのが本居宣長だ。

で、そんな宣長すげえといふ思ひを無私の精神で表したのが小林秀雄で、その小林を清潔だといつて愛したのが池田晶子だ。

by ichiro_ishikawa | 2018-05-04 14:56 | 文学 | Comments(1)  

目に見えないと理解できない日本人


日本人は抽象的、論理的思考が苦手で、それは散文より詩歌、裁判より示談、以心伝心、忖度といつた方向に向かひがち、といふところにも表れてゐる。

目に見えない唯一神より山でも海でも現実の目の前に見える森羅万象に宿るところの八百万の神を信奉することも然り。

先日の大降雪で、誰かが、さうした特徴をさらに抽象せしめて、目に見えるものしか信じない、コトが起こらないと次の動きができないといふ日本人の特徴を指摘して、だから正確に予報がなされてゐても、実際に雪が降つたのを確認してから人々は対処しだし、例によつて交通機関の麻痺、帰宅難民で溢れた、効率的に動くのが本当に苦手な国民だ、といふやうなことを書いてゐて、なるへそと思つた。

確かに効率は悪い。殊に仕事などにおいてはダメだ。しかしどこか、さうさう、確かに目に見えないとよく分からぬ、といふところがある。
人に何かをしてもらつて神に感謝するよりその人に感謝する。人が弱つてゐるときには遠くで真摯にお祈りするよりも、何ができるわけではないけれど、とにかく駆けつけたい。

この、目に見えるものしか信じない、コトが起こらないと次の動きができない心性といふのは深いものがある。

それは、理屈より感覚や身体性を信ずるといふことにもつながつてゐて、たとへば、人が死ぬといふことなどにおいては、死ぬとはいかなることかさつぱり分からないと分かり、しかし今までゐた人が無くなるといふ事態に面接したときにピタッと死といふものを理解もしている、といふ独特の感知の仕方が成され、つまりわからないがわかる、わかるがわからない、といつたところをぐるぐるまわり、それは哲学の萌芽であらうと思はれる。

以上、オチなし。




by ichiro_ishikawa | 2018-01-25 15:10 | 日々の泡 | Comments(0)  

小林秀雄のジャンル


小林秀雄は研究者や高い教養のある読書家、インテリ層にとても評判が悪いやうで、実証的にそのダメさが多く指摘されてもゐる。
エピゴーネンの俺は、なるべく謙虚に無私の精神を持つてそれらを読むやうにしてゐるが、それでもやはり的外れなものが多いと思はれる。
要するに、それらは「研究論文」「評論文」として小林の著作は瑕疵だらけといふ批判なのだ。
しかし小林の文章はロックンロールであり、つまりポップであり、「常識」を基盤とした個人の情熱であつて、「研究論文」や「評論文」ではない。さういふ意味で的外れなわけだ。「近代批評の確立者」といふレッテルが微妙なのだ。正確には「孤高のロック文士」(でもこれだとアカデミックに残らない、正史に記録されないので俗称にとどめん)。

小林の愛読者がまさしく眺めるものは無私なる(ゆゑに極めて個性的な)小林の情熱であり、その情熱に動かされるのであつて、その「客観的な妥当性」にではない。かつ、小林に認める凄さとは、その情熱の方が客観的な妥当性よりも大事だといふ事に気づかせてくれるところだ。研究や評論に価値がないといふ事では勿論ない。それとは別次元の、原始的な、人間にとつて大事なもの、といふジャンルがあるといふ事で、小林秀雄はそこに属する。そのジャンルにはほかに池田晶子がゐる。その二人しかゐない。

by ichiro_ishikawa | 2017-03-10 12:49 | 文学 | Comments(1)  

連載 小林秀雄が考えるように考える 1


「本居宣長」に、「死者は去るのではない。還って来ないのだ」 という言葉がある。
平易だがよくよく考えると難解な言葉だ。
去ると還らないは結果、同義ではないか。何だか煙に巻かれたようだ。

この、結果、を持ち出すのが我々の悪い癖である。
結果を求める。

去る、と還って来ない、は全く違う。

どう違うか。

全体の中でワンフレーズを切り取って考えてみてもしょうがないのだが、
小林秀雄は全編サビでできた散文詩なので、切り取ってもよい。

とはいえ、続きを見てみる。

「死者は去るのではない。還って来ないのだ。と言うのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない、という意味だ。それは、死という言葉と一緒に生れて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。」

つまり、これは
美しい花がある、花の美しさ、というようなものはない。と同じことを言っているのではないか。



by ichiro_ishikawa | 2016-04-12 21:08 | 文学 | Comments(1)  

不安について


不安や、傷つきやすい自分の表現が文学、あるいは文学的な歌詞、と思われているが、本来、文学とは明るく、前向きで健康的なものだ。
哀しみはある。
明るく前向きという事がすでにどこか哀しい。

不安だ、傷ついた、など言うのは、自分の事しか考えていないからだ。もっと人の事を、人の事ばかりを考えていれば、不安だのどうだのと、くよくよしている暇はないはずだ。

内省も重要か。
鏡を通してしか自分の顔を知りえないように、ましてそも目に見えない「内面」は、他者という他人、もの、ことにぶつからねば分からない。

というようなことをどこかで小林秀雄も書いていた。

by ichiro_ishikawa | 2016-04-12 07:20 | 文学 | Comments(0)  

小林秀雄関連本も昨年続々刊行

小林秀雄関連本も昨年続々刊行。

この人を見よ:小林秀雄全集月報集成 (新潮文庫)
新潮社小林秀雄全集編集室 編
新潮社 (2014/12/22)

小林秀雄の思ひ出 (文春学藝ライブラリー)
郡司 勝義
文藝春秋 (2014/6/10)

学生との対話
小林 秀雄(国民文化研究会、新潮社 編)
新潮社 (2014/3/28)

なお、「文學界」と「新潮」でそれぞれ評論、若松英輔「美しい花 小林秀雄」、大澤信亮「小林秀雄」が連載中。

by ichiro_ishikawa | 2015-02-09 23:56 | 文学 | Comments(0)  

池田晶子本、続々刊行

池田晶子本、関連本が続々刊行されていた。

ぬための哲学――池田晶子の言葉-池田-晶子/dp/4062193639/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1423492406&sr=1-1&keywords=池田+晶子" target="_blank">幸福に死ぬための哲学――池田晶子の言葉』
池田晶子(NPO法人わたくし、つまりNobody 編)
講談社 (2015/2/19)

池田晶子の言葉―小林秀雄からのバトン
稲瀬吉雄
コスモスライブラリー (2015/1/1)

考える日々 全編
池田晶子
毎日新聞社 (2014/11/27)

池田晶子
毎日新聞社 (2014/11/27)
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by ichiro_ishikawa | 2015-02-09 23:41 | 文学 | Comments(0)  

池田晶子 in ニュースステーション

超貴重映像。
だのにテレビってちゃかすから嫌いだ。

by ichiro_ishikawa | 2011-11-04 02:28 | 文学 | Comments(0)  

池田晶子 読売新聞1998年4月1日

 現在の日本に生きる人々は、自分が何のために何をしているかを自覚していませんね。自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きているから、いったんその価値が崩れると慌てふためくことになる。精神性の欠如という点で、かなりレベルの低い時代と思う。
 現代世界全体がそうだが、物質主義、現世主義、生命至上主義です。欲望とか生活とか、そういったことの人生における意味と価値を、根っこからきちんと考えたことがない。だから、金融不安など大事件のように騒いでいるが、先が分からないのは別に今に始まったことではない。生存するということは、基本的にそういうことなのだから、ちょうどいい気付け薬だと私は思う。
 地球人類は失敗しました。率直なところ、私はもう手遅れだと思う。この世に存在した時から、生存していることの意味を問おうとせず、生存することそれ自体が価値だと思って、ただ生き延びようとしてきた。結果、数千年かけて徐々に失敗した。医学なども、なぜ生きるのかを問わず、ただ生きようとすることで進歩した。何のための科学かという哲学的な内省を経ていない。
 ただ生きるのが価値なのでなく、善く生きること、つまり、より善い精神性をもって生きることだけが価値なのです。内省と自覚の欠如が、人類の失敗の原因だが、手遅れだといって放棄していいのではない。常により善く生きようとすることだけが価値なのだから、それを各人が自分の持ち場において実行するべきなのです。
 政治にしても、問題は、政治家が「よりよい」と言うときの、その意味です。彼らの言う「よい」とは、「善い」ではなくて「良い」、良い生活が人間の価値であることを疑ったことがない。しかし、人生の幸福は精神の充足以外あり得ません。物質に充足した人が、必ずしも幸福だとは思っていないのはなぜですか。みんな自分を考えるということを知らない。考え方を知らないというよりも、そもそも「考える」とはどういうことかさえ知らない。
 国民の側も、他人のことを悪く言えるほどあなたは善いのですかと、私はいつも思う。汚職した官僚や政治家はむろん悪いが、その悪いことをした人を、得をしたとうらやんで悪く言っているなら同じことだ。嫉妬と羨望を正義の名にすり替えているだけだ。
 世の中が悪いのを、常に他人のせいにしようとするその姿勢そのものが、結局世の中全体を悪くしていると思う。政治家が悪いと言っても、その悪い政治家を選んだのは国民なんだから。にわとりと卵で、どうしようもないと気づいた時こそ、「善い」とは何かと考えてみるべきだ。一人ひとりがそれを考えて自覚的に生きる以外、世の中は決して善くならない。
 税金の引き上げ引き下げで、生活が良くなる悪くなるという話以前の根本的な問題です。
 むろん政治は、生活する自我同士の紛争を調停するのが仕事なのだから、政治家はそのことに自覚的であってもらいたい。政治家が人を動かし、政策を進める時の武器は「言葉」のはず。しかし、現在の政治の現場ほど言葉が空疎である場所はない。「命を懸けて」なんて平気で言う。言う方も聞く方も本気とは思っていない。政治家に詩人であれとは望まないが、自分の武器を大事にしないのは、自分の仕事に本気でないからだ。言葉を大事にしない国は滅びます。
 だからと言って、「保守主義」とか自分から名乗るのもどうかと思う。なんであれ「主義」というのはそれだけで空疎なものだ。自分の内容が空疎だから、そういう外側のスローガンに頼りたい場合が多いのではないか。やはり、各人の精神の在り方こそが問われるべきだ。
 問題はそんなところにない。要は、政治家から国民まで、一人ひとりの生き方の自覚でしかない。だからこそ「考える」ことが必要だ。考えもしないで生きているから、滅びの道を歩むことになる。考えることなら、今すぐこの場で出来ることです。
(中略)
 半世紀戦争がなかったことが大きいと思うが、みんな自分が死ぬということを忘れている。人がものを考えないのは、死を身近に見ないからだと思う。と言って、永遠に生きると考えているわけでもない。漠然としたライフプランで、なんとなく生きている。一番強いインパクトは死です。人がものを考え、自覚的に生き始めるための契機は死を知ることです。
 制度を変えても、精神の在り方が変わらなければ、世の中は決して変わりません。
(読売新聞、1998年4月1日 blog 目黒被災より)

by ichiro_ishikawa | 2011-11-04 02:16 | 文学 | Comments(0)