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背表紙と俺

 大震災で俺のCD棚は崩壊し、多くのケースがわれ、ディスクが破損した。
 以前、外付けHDが壊れ20000曲のデータが失われた事は既に嘆き済みで、データの儚さを知ったものだが、ディスクもまた実に脆いものであった。
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 同じく本棚もあらかた倒壊したが、本一冊一冊は全く無事である。多少の破損はあるものの読むには全く支障はない。たとえそれが八つ裂きになっていたとしてもその復元が容易な事は、癇癪をおこして一度自ら引きちぎってしまった段平からの「あしたのために その1」を見事つなぎ合わせ、ジャブを会得したジョーの例が立証済みだ。
 本の耐久力のすげさに感心する。
 そんな中、あまり報道はされていないが、東北に多い紙の工場が被災し、紙の調達がままならず、出版に支障が生じている。さらに物流難で配本もままならない事態だ。というと、やっぱり電子書籍じゃね? という思考放棄・右へ習え体質のイージーな輩が多く出没するが、電子書籍なんて本じゃねえ。まあ野球に対しての野球盤みたいなものだ。野球盤は野球盤ですげえ面白いが。

 この震災で倒壊した本棚の中、唯一被災を奇跡的に免れていたのが、我が家では、小林秀雄全集ならびに池田晶子コーナーであった。
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 滅茶苦茶になった我が部屋の中、唯一すっくと屹立し、たじろがない小林秀雄と池田晶子。その背表紙を眺めていたら、涙が止まらなかった。男は背中ですべてを語るものだが、本は背表紙がすべてを語る。

by ichiro_ishikawa | 2011-03-24 01:19 | 文学 | Comments(0)  

池田晶子『残酷人生論』、唐突に復刊

 池田晶子、初期の最高傑作『残酷人生論』が、毎日新聞社から増補改訂版として唐突に復刊した。
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 『残酷人生論』は、全作が最高傑作池田晶子の著作の中でも俺が最も気に入っている作品で、初めて池田晶子と出会ったのが、何を隠そうこの『残酷人生論』だったということを知っておくのはよい事だ。

 俺が、はじめて池田晶子に出くわしたのは、26歳の春であった。その時、俺は、四谷をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向こうからやって来た見知らぬ女が、いきなり俺を叩きのめしたのである。俺には、何の準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見つけた情報センター出版局の「残酷人生論」の四六判に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、俺は夢にも考えていなかった。しかも、この爆弾の発火装置は、俺の覚束ない哲学の力なぞ殆ど問題ではないくらい敏感に出来ていた。四六判は見事に炸裂し、俺は、数年の間、池田晶子という事件の渦中にあった。それは確かに事件であったようにも思われる。文学とは他人にとって何であれ、少なくとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さえ現実の事件である。と、はじめて教えてくれたのは、池田晶子だったように思われる。
 

by ichiro_ishikawa | 2010-12-29 22:09 | 文学 | Comments(0)  

引用「いい書評」


 ニーチェの言葉というのはすべて血で書かれているような気がどうしてもしてしまうからどこを切ってもよく噴き出して、その哲学の精髄に触れるつもりがあってもなくても読んだ者にはときとして並ならぬ興奮と覚醒を与えてしまって、加えて超人や永劫回帰といった概念は類い稀なる詩才と相俟っていつの時代も悩める人々を(良くも悪くも)魅了してやみません。それはかつて近代という不明な空間を生き、変革を迫られていた日本の知識人−−高山樗牛、夏目漱石、新渡戸稲造、萩原朔太郎、芥川龍之介らをも当然のごとく直撃しました。本書は徹底した比較文学の作業によって導き出される−−いわゆるニーチェ・ショックが、彼らへ与えた影響の履歴であります。
 とりわけ表題にもなってい漱石が壮絶に面白くて興味深く、人間の悲哀と滑稽と求道と猫の目で描いた『吾輩は猫である』と執筆当時し、英訳『ツァラトゥストラ』を精読していたと思われる漱石の心の中をのぞき見しているような気持ちになります。無数の断片、激しく引かれるアンダーライン、怒濤の反論、トゥルー!と書き込まれる共鳴。漱石の暗部を照らしつつ望みをつなぐ応酬に、慣れ親しんだ名作の知られざる苦悩と達成が鮮やかに現出します。
 とにかく愉しい。仮に漱石やニーチェをまるで取らない人が読んでも本書には親切と挑発が満ち満ちているので興奮を見失う心配はないし、言うまでもなく愛読者たちにも新鮮な発見は約束されます。ああ、それにしてもニーチェというひとつの知性(個性)の振る舞いがこれほどまでに多様な感受を生むことに驚きながら、浮き彫りになる各人の魅力がたまらない。読み終わったあとに情熱に置き去りにされたようで無性に寂しかったので、すぐにもう一度読みました(表向きは殆ど反応を示さなかった森鴎外のエピソードも印象的。さすがというかなんというか……超人ならぬ公人パワー)。

 以上、読売新聞3/21付朝刊書評欄より全文。まるで池田晶子のような文体の持ち主は、旬の人、川上未映子。評されている書は杉田弘子『漱石の『猫』とニーチェ』(白水社)。
 川上未映子を知ったのは芥川賞『乳と卵』で、遅れてきた読者なわけだが、その後、彼女のブログで、小林秀雄と池田晶子を相当敬愛している事を知り、過去の『わたくし率 イン 歯ー、または世界』(講談社)、『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ舎)、『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』( 青土社)という、まさにその世界を想起させる著書を読むにつけ、一気に信用した。その線から行くと最新意欲作『ヘヴン』(集英社)は、ポップを引き受けざるを得ない位置に来てしまった故のプレッシャーか、いささか薄く、やや物足りなかったが、向いている方向はよく、次作が待ち遠しい作家の一人。

 上記、書評の書は、税抜き3200円。高すぎる。また上製本は、かさばり、重く、これ以上本に場所を取らせたくないので、立ち読みで済まさざるを得ない。こういう位置の書が、電子ブックで購入されるのだろうな、俺に。本屋で立って読むのは疲れるからな。煙草も吸えねえしな。小林秀雄や池田晶子ら、出たら即買い・保存必至というもの以外は、まず電子で買う。そして「すげえ名著だ」と感激したら、さらに本も買う。こういう流れになるはずだ。だから電子ブックはバンバン売れるのではないかな。全書500円ぐらいになれば。本は売り上げは確実に下がるな。保存欲を相当かき立てるものだけが本の形で買われる。その決め手は当然内容の質、そして装丁を中心とした全体のブックデザイン。でもやはり骨董品、オブジェではないのは、折ったり書き込んだりする必要があるからで、そういう意味では、「500円の文庫」、これが本の最も魅力ある形だ。

by ichiro_ishikawa | 2010-03-22 16:38 | 文学 | Comments(0)  

感涙「池田晶子とソクラテス」


 池田晶子『無敵のソクラテス』読了。
 これ、聖書だな。ホテルの机の引き出しに入ってるべき。
 
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by ichiro_ishikawa | 2010-02-11 22:43 | 文学 | Comments(1)  

批評「小林秀雄 by 池田晶子」


 日本における「考える文章」の最高峰。
 思索の深さは同時代の学者や評論家の及ぶところではない。これまた「考える」と「書く」との見事な一致。それは他でもない人生の覚悟である。文体とは肉体である。ゆえに文体の所有とは覚悟の所有なのである。「本物の人間」の味わいがたまらない。惚れる。

(『無敵のソクラテス』所収「池田晶子・選 大人のための哲学書案内」より、
小林秀雄『考えるヒント』評)

by ichiro_ishikawa | 2010-02-11 22:02 | 文学 | Comments(0)  

池田晶子「事象そのものへ!」再読


「闘争のエチカ」
「世界へ向ける視線を闘争に向けて鍛えよ」
「時代と対峙する、から、時代と戯れるへ」
「ヘーゲル的世界観が崩壊」
「マルキシズムが終焉」
「思想の最前線」

 このような物言いに、直感的に違和感を覚えていた矢先の池田晶子の登場だった。
 90年代に大学に入り、後追いで80年代のいわゆるポストモダンなる「新思想」の潮流をさらっていた。「いま、知がおシャレ」「軽チャー」などと、「考える」事が、ファッションとして流通・消費されていることに、直感的に虫酸が走っていた。変な(シャレた)言葉を編み出して使って悦に入っている。
 
「この種の書物は、なぜいつもこんなふうに勇ましいスローガンとセットになって売られなければならないのだろう」。池田晶子は初期の著書『事象そのものへ!』の冒頭で、こうした知識人へのいらだちを鮮明に表明し、彼らのやましい自己顕示欲を暴き、「真に」考える、という事を、手ぶらで生涯遂行した。学術語を一切排除したその文体は、明らかに、普通の我々、に向いたものであった。

「世界に生起する諸事象を普遍的意識による個別的現象形態として認識し、それら全事象の存在論の、詩的言語による体系化の試み」
と学術用語では言うところを、
「誰もが等しく意識を持っている、これが普遍です。誰もが違う顔をしている。これが個別です。誰もがものを考える、そのことについて考えるのが認識論、誰もが生(ある)と死(ない)との間を漂っている、これを不思議と問い始める事を存在論と考えます」
と、基本的に全編にわたって、このような平易な言葉で丁寧に正確に表現し得ている。ただ、考えられている、それ自体が謎の極致なので、難しいと言えば難しい。これはしょうがない。だが、そうした本質を考えることの面白さ、これを知ってしまうと病みつきになる。
「その謎に驚き、そして知りたいと欲してただひたする考える、その無私の精神の軌跡をできるだけ正確に表すこと、すなわち考えるとは一体どういうことであるかをそこに現れてくる果てしない自由の味わいとともに、日常の言葉で美しく語」り続けたのであった。

 以上、文中の池田晶子を小林秀雄と置き換えても、事実として成立する。
 小林秀雄と池田晶子は、エセ知識人を嫌悪し、大知識人を愛した。同じ事にいらだち、同じ事を、同じ人に向けて、書き続けた。

 1991年に出た「事象そのものへ!」が復刊したので、古本屋で入手して初読した1998年以来、比較的再読する事の少なかった本書を、実に10年ぶりに再読。初出が「中央公論」「文藝」「群像」といった専門誌なので、ある程度学のある読者に特化して書かれた向きはあるが、中期以降の著書を読んだあとにここに戻ってくるとすんなり頭に入ってくる。書かれていることは、全著書同じだが、本書は、全部言ってやる、というような迫力がある。
 ここ最近、古今東西の他の文筆家の作品を読みあさってきたが、ちょっとケタというか、格がやはり違う、と改めて思い知った。

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「事象そのものへ!」池田晶子

by ichiro_ishikawa | 2010-02-08 01:43 | 文学 | Comments(2)  

突然出版「無敵のソクラテス」


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『無敵のソクラテス』
新潮社 1月30日刊、税込定価2940円

 唐突に出ていた。
 公式サイト (池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞によると、池田晶子「対話篇」作品(『帰ってきたソクラテス』、『悪妻に訊け 帰ってきたソクラテス』、『さよならクラテス』)の全貌を収めた完全版とのこと。従来のシリーズ本の内容に加えて、他書収載の数篇もすべてこの一冊に網羅し、各篇の配列を生前の著者の意図に準じて再編集した、とある。

 おそらく、池田晶子作品中、もっとも読みやすいシリーズがこの対話編。ソクラテスが、今に生きる様々な市井の人々と「対話」する形式を取る。一般に「そうである」と思われている事や、正義としてまかり通っている何らかの「主張」を、ソクラテスが片っ端から順番に疑って行く、というやり取りが続く。言わば、池田晶子の「ソクラテスならこう言うね」だ。

by ichiro_ishikawa | 2010-02-07 00:52 | 文学 | Comments(1)  

池田晶子「事象そのものへ!」 新装復刊

池田晶子「事象そのものへ!」 、新装復刊

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 1991年7月に法藏館書店より刊行された『事象そのものへ!』。新装復刊に際し再度の校訂がなされ、著作一覧・略歴が付されているとのこと。どうせなら文庫にしてほしかったな。500円で。法藏館版があれば購入する必要なし。ないならば、こっちのほうが良い。
 本書は、デビュー作『最後からひとりめの読者による埴谷雄高論』(河出書房新社、1987年)」に次ぐセカンド。「事象そのものへ」行っていて、ものすげえことになっている。全人類必読の大名著。ちなみに本ブログの創刊コンセプト「事象の本質を考える試み」はここから取った。

by ichiro_ishikawa | 2010-01-28 17:13 | 文学 | Comments(3)  

エセー「酒と俺 2」


俺が無類の酒好きであることは、どうやらあまり知られていないようだ、
というか、むしろ下戸、と大きな勘違いをしている輩が実に多いのは、意外なことだ。
小林秀雄や池田晶子が酒好きなので、彼らへの憧れから見栄を張っている、と思われているのも実に心外なことだ。
なぜ、そうした誤解が生まれるか。
おそらくは、酒の席でも俺が常にウーロン茶やコーヒーを飲んでいる、
という、事象の表面しか見ない、明らかに思考放棄な怠惰な人間が多いという、単純なことに過ぎまい。
俺が、ウーロン茶やコーヒーを飲むのは、ウーロン茶やコーヒーが酒と同様に好きであることもそうだが、何より、酒を飲むと1/2の確率で後頭部の奥がピキピキ痛みだすため、そしてこの痛みが普通の人ならその場でのたうち回るであろうほどの尋常でない痛みだからである。

一方、俺が、物質、眼に見えるのもの全般を軽視していることはよく知られることだ。
とはいえ、「俺」は、この脳を中心とする、社会便宜上、石川一郎と名付けられた物質となぜか常にともに「いる」。だが、この物質が、実は「俺」にはすごく邪魔であり、できれば切り離して、ただ「俺」だけで在りたいという強い欲求がある。
眼を瞑り、前後左右上下不覚の状態、この俺を「俺」と呼んでいる「これ」だけで「在る」状態、いわば「存在」だけである状態、がいい。
俺が、世でのあらゆる行為の中で「眠る」というアクションが最も好きなのもそういうことだ。
また、海で波にさらわれると、それに近い状態になることを知って以来、毎年海に行っては、波にさらわれ溺れているのも、実はそういうことだ。
その「存在」自体を、「俺」と呼ぶと混乱するならば、シンプルに「魂」と呼んでも「精神」と呼んでもいい。「ソウル」、「スピリッツ」と。

ところで、酒は「スピリッツ」というじゃないか。
つまり、人類は、酒を「精神」と同じもの、少なくともその例えと見なしてきたのだ。
酒とは精神であったのだ。
そんなわけで、物質としての俺を1/2の確率で常に悩ませるこの酒を、俺は愛してやまない。

by ichiro_ishikawa | 2009-04-19 00:36 | 日々の泡 | Comments(0)  

池田晶子新刊3冊の感想


 池田晶子の新刊3冊「魂とは何か」「私とは何か」「死とは何か」を読んだ。単行本未収録原稿がたくさんあって良かったが、まあ、言っていることは、いつも同じだ。
 「死とは何か」には、直筆の原稿が載っていた。終生、コクヨの原稿用紙に100円ボールペンで、手ぶらで原稿を書き続けたらしい。当の文字は、一読では判読不能な殴り書き。それでもいつもより丁寧に書いたのだという。思考に筆が追いつかないのだろうか。
 「私とは何か」には、小6時の作文が載っている。天才としか言いようがない。
この作文がなくても十分天才なのだけれど、やはり尋常じゃない哲学的直観力が備わっている。
池田晶子の父親は朝日新聞社の元編集委員で、記者上がりとはいえ学者肌のインテリだったらしく、かなりの蔵書があり、池田晶子は幼少時分からそれらに親しんでいたという。そうした血統、環境の影響も多分にあろう。
 俺の家には、蔵書なぞなかった。本どころか、レコードとか文化的なものが何もなかった。雑誌はかろうじて「きょうの料理」があったぐらいで、基本的に、掃除機とか炊飯器とか鍋といった生活グッズと、メシ以外の物質は何もなかった。あの親たちには趣味がなかったのか…。
 ただ、愛だけがあった。だから、俺は、愛こそがすべて、という人間なった。

by ichiro_ishikawa | 2009-04-14 06:15 | 文学 | Comments(0)