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ジャズ演奏中の頭のなか


ジャズは適当に感覚の赴くまま弾いてるのかと思つたらいろいろ考へられてゐることが発覚した。
といふか感覚を言語化してみたといふべきか。



by ichiro_ishikawa | 2019-05-21 09:47 | 音楽 | Comments(0)  

ズージャと俺

ジャズがわかつたのは30をとうに過ぎたころだつたか。それまでは、なんかダセエな、つまらんな、雰囲気ものだな、イージーリスニングだな、とわかつた風に見切つてゐた。つまり、「もつとロックに演れないものかね」。

まるで、寿司を食つて、こんなのカレーじやねえ。と言つてゐたやうなものだ。

寿司は寿司なのであつた。こんな当たり前のことに気づくのに相当な時間を要したといふのは滑稽なことだが、さういふことはある。

ジャズはロックではない。むしろ対極にある。といふことに気づいたときがジャズがわかつた瞬間だ。一番の違いはドラム、次にベース。つまりリズムだ。ビートだけでなく音色も違ふ。次に、ギターやサックス、ピアノなどの上物の音階。ロックでは絶対使はない音の連なり。
あとは、ソウルでなく技術を聴かせるといふ、そもそもの意図が異なる。名演あれど名曲なしといふ。演奏技術に眼目が置かれてゐるので、曲自体はどうでもいいといふか、なんでもよく、大抵スタンダードナンバーが選ばれる。落語のやうなものか。何を演るかでなく、どう演るか。
そして最後にアドリブ、即興である。インタープレイも含まれる。元曲をどうアレンジするか、どう構築するか、どう演者同士が響き合ふか。

さうしたジャズが目指してゐるものが分かり、それはロックが内包するもの目指すものとは全く違ふものだつた、といふことに気づいたとき、ジャズの魅力を味わへるやうになつた。
これを、わかつた元年としてゐる。西暦にして2005年ごろか。

しかし、てめえ自身が技術的にジャズを演れないためもあつてか、本当の細かいところはわかつてゐない。高度な音楽理論と、それを聴き分ける耳がないと、本当にわかつたことにはならない。ただ、わかつたことにはならないとわかつてゐることが救ひか。

だから、ウェスモンゴメリー、ジョーパス、パットメセニー、ジョンスコフィールド、マイクスターン、パットマルティーノ、バーニーケッセル、ケニーバレル、などなど好きなギタリストはあまたゐても、全部ほぼ同じに聴こえる。他の楽器もしかり。体系的なことも理解してゐない。
理解できるのは、それぞれの生年や出自ぐらい、つまり人となりの表層。これは伝記好きが高じてのものである。伝記には音楽的特徴もよく書かれてゐるが、使用されてゐる音楽用語がよく分からず、音として実感できない。だからヤク中だつたとか、神童だつたとか、バークレーで学んだとか独学だとか親指だけで弾いてゐるとか、どこそこのバンドにゐたとか、監獄にゐたとか周辺情報だけだ。

それでもいまは十分満足してゐる。ただ聴いてゐて心地良い。しかし前述のやうな細かい(ジャズプロパーにとつては大きな)違ひが分かれば、さらに深い森へと入つていけるのだらうし、行きたくもある。経験的に演奏に挑戦してみるのが一番良いと思ふのだが、ギター歴30年にしてEmをストロークするところで止まつてゐるので絶望的だ。1ミクロンも弾ける気がしない。

とまれ、カレーに飽きると寿司が食いたくなるといふことがある。逆もある。
いまはゲスとユーミンばかり聴いてゐた反動でパットメセニーばかり聴いてゐる。



by ichiro_ishikawa | 2019-05-20 02:53 | 音楽 | Comments(0)  

25 Essential Jazz Soundtracks You Should Own(転載)

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25 Essential Jazz Soundtracks You Should Own

From the first talkie to modern films such as ‘Whiplash’, jazz and the movies have had a fruitful relationship. Here are 25 of the best jazz soundtracks.

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by ichiro_ishikawa | 2019-05-07 00:23 | 音楽 | Comments(0)  

Tommy LiPuma works

大滝詠一 全ソロ・ライヴ記録(除川哲朗)  

が読みたくて、何だかんだで結局「レコードコレクターズ」2019年4月号を買つてしまつた訳だが、第2特集のトミー・リピューマ特集がよかつたので、タバコ2箱分は十分回収できたといつてよい。

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2017年の逝去からなぜ今さら?と思つたが、『Tommy LiPuma works』が出たからであつた。
プロデューサーやアレンジャー、スタジオミュージシャン、エンジニアといつた、言はば裏方の「〜works」企画はいまのマイブームno.1でもあり、早速Apple Musicで聴きながら、本書を重宝してゐる。何せApple Musicはライナーノーツがないのが難点だからだ。
今回の特集では、リピューマのバイオグラフィと、『Tommy LiPuma works』解説に加へ、「 エンジニア:アル・シュミットの自伝(杉原志啓) 」がよかつた。
またリピューマのプロデュースアルバム100選も。だがこの手の選にはレコーディングデータも欲しかつた(本文である程度は触れてゐるが)。Apple Musicのもうひとつの、そして最大の難点として、このデータが付与されてないことが挙げられる。これが付与されてれば、例へば「ベーシスト毎の曲ソート」などが出来るのだ。Apple Musicにハガキで投書してみよう。

といふのは蛇足で、本題は、件の『Tommy LiPuma works』、全45曲がApple Musicでは「Warner Edition」となつてゐて全29曲しかない、といふショックである。
これは片手落ちだと、CDを入手しようとしたが、「いやApple Musicで原盤を集めててめえでプレイリストを作ればよいのでは?」と閃いて、早速作つてみた。ここで気づいたのが、ニック・デカロが配信されてなかつたことだ。傑作『Italian Graphity』がないのである。これはショックだつた。ほかにも数曲ないのがあつたが、45曲中40曲は集まつたので、よしとした。













by ichiro_ishikawa | 2019-03-21 21:18 | 音楽 | Comments(0)  

連載 日本のジャズ史(10 最終回)エルヴィス'56


1956年、メンフィスにて黒人リズム&ブルーズやカントリー&ウェスタンを摂取してきたエルヴィス・プレスリーがサン・レコードでの2年の活動を経て大手RCAと契約。「ハートブレイクホテル」一発で全世界を変へる。同年、「ハウンドドッグ」「ブルースエードシューズ」と立て続けにシングルをリリースし、ロックンロールはジャズを完全に凌駕。その影響下、日本のポップミュージックシーンも全く新しい時代に入つていく。
ジャズはマイルズ・デイヴィスによるクール、モード、エレクトリックなどによる革命や、ラテン、ソウル、ブラジル、ロックとのクロスオーバーなどによるポップ化、フリーなどの前衛、芸術化へと向かふ。
ポップミュージックシーンはボーダーレスに混沌としながら深化し、80年代のヒップホップ、テクノをもつて総決算がなされていく。

エルヴィス・プレスリー「ハウンドドッグ」

ハタノオーケストラから二村定一、ディック・ミネ、藤山一郎をずつと聴き続けたあとに、これを聴いてみると、その衝撃がよく分かる。
本連載はこの衝撃をリアルに追体験するために長々と続けてきたのであつた。




by ichiro_ishikawa | 2018-11-19 11:06 | 音楽 | Comments(0)  

連載 日本ジャズ史(9) 戦後〜1955年


占領軍の進駐とジャズの復活・空前のジャズブーム


1940年(昭和15)10月31日、全国のダンスホールの閉鎖、1943年(昭和18)年1月13日、ジャズなどの米英楽曲約1000種の演奏禁止によつて、日本のジャズ演奏は終焉。


戦後になり、ジャズを中心とする軽音楽が甦る。


1945年(昭和20)9月9日

タンゴバンドで鳴らした桜井潔楽団が演奏。

9月23日、「日米放送音楽会」に米軍軍楽隊233部隊が出演し、戦後初のジャズ放送が実施。

NHK・占領軍用放送ネットワーク「WVTR」(第二放送用・FENの前身)が9月23日から放送開始。米軍の独自のプログラム編成で絶え間なく音楽が放送される。


1945年(昭和20)11月25日

「ニュー・パシフィック・バンド」(新太平洋楽団)が東京放送管弦楽団とともにジャズ演奏。

12月2日夜8時30分から、「ニューパシフィック・アワー」にレギュラー出演。テーマ曲は松本伸のテナーサックスをフィーチャーしたジョニー・マサーの「ドリーム」。



ジャズ音楽は、東京を中心に各地に設置された進駐軍キャンプや将校クラブでも盛んに演奏された。

その頃のジャズバンドは以下の通り。


「渡辺弘とスターダスターズ」

1946年2月に「渡辺弘楽団」の名でNHKラジオに出演。銀座に事務所を置き、いくつかのバンドを傘下に収め6月「スターダスターズ」と改名したバンドを率ひて第一ホテル(米軍高級将校宿舎)で演奏。第一ホテルのテストで、ホーギー・カーマイケルの名作『スターダスト』を演奏し合格したのでバンド名をこの名前にした。この時のメンバーには歌・三根徳一(ディック・ミネ)、中沢寿士(tb)ら戦前派のトップ・ジャズマンをずらりと揃へた。水の江滝子に振付けてもらひ、自ら壁ぬりスタイルでステージいつぱいに動き、踊る指揮者で一時代を築く。その後第一ホテルをメインにラジオ、映画、ジャズコンサート、レセプションと活躍を続け、戦後日本のジャズ復興の大きな原動力に。翌1947年には専属歌手を石井好子、ティーブ・釜萢(かまやつひろしの父)に変へ、戦後初の日劇ジャズ・ショーを成功させる。渡辺の周りには多くのジャズシンガー・プレイヤーが集まり、彼らをメンバーに加へ、1950年には総勢21名編成の充実期を迎へた。専属歌手はナンシー梅木、ペギー葉山、富樫貞子、青山ヨシオ、笈田敏夫ら。編曲は黛敏郎ら。のちに人気バンドを率いた南里文雄(ホット・ペッパーズ)、多忠修(ゲイ・スターズ)、谷口安彦(スイング・プレミア)、杉原泰蔵(スイング東京)らも在籍した。



「東松二郎とアズマニアンズ」


「南里文雄とホット・ペッパーズ」




戦前から外国のポピュラー音楽を歌つてゐた、淡谷のり子ディック・ミネ灰田勝彦らは、進駐軍キャンプや高級将校クラブの慰問演奏で拍手喝采を浴びた。


淡谷のり子は戦争中、レコードに吹込んだ外国系のポピュラーソングが常に検閲にひつかかり、悲哀を経験してゐた。戦後は、ジャズ、ブルース、シャンソンと思ふ存分歌へることができるやうになつた。


ディック・ミネは、進駐軍のキャンプで彼本来のジャズ、ポピュラーソングを歌ひまくり拍手の嵐だつた。そのために、NHK『紅白音楽試合』に出演できなかつた。


灰田勝彦も戦中に敵性音楽のハワイアンを歌ひ、随分と軍部から睨まれた。ステージで歌つてゐるところを発砲まで受ける。戦後の灰田勝彦はまるで水をえた魚のやうであつた。


占領軍の進駐によつて、この息吹が戦前から隆盛してゐた日本のジャズを復活させた。そして、戦前モダンの香りをもつてゐた歌謡曲も復活させた。  


1952(昭和27)4月28日

日米安全保障条約が発効。占領軍は駐留軍に。米軍基地はそのまま残つたが、規模は縮小された。それまで、基地まはりをしてゐた日本人のジャズ・バンドは、基地外で演奏するやうに。これを契機にジャズラッシュが始まつた。アメリカのジャズメンたちも日本にどつと押し寄せた。1952年(昭和27)4月には「ジーン・クルーパ・トリオ」が来日公演。スウィング全盛時代のベニー・グッドマン楽団の名ドラマーで知られるジーン・クルーパを中心に、テディ・ナポレオン(ピアノ)、チャリー・ヴェンテューラー(サックス)で編成。



そのブームのなかで江利チエミ(1937(昭和12)年1月11日、東京・入谷生まれ。父はクラリネット奏者、母は松竹楽劇団の出身の女優。幼いときから、米軍キャンプを巡)が歌ふ「テネシーワルツ」がヒット。


1953(昭和28)年、雪村いづみが「想い出のワルツ」を歌ひデビュー。この歌は、チエミがハワイ公演のとき、アメリカのコーラスグループ「デルタ・リズム・ボーイズ」のリーダー、カール・ジョーンズが彼女に薦めた歌だつた。


チエミにいづみに美空ひばりを加へて「三人娘」時代を形成。演歌・ひばり、ジャズと邦楽の融合・チエミ、ミュージカル唱法・いづみそれぞれの個性が戦後の歌謡界を彩つた。   



戦後の空前のジャズブームのなか、ビクターでは戦前からのヒットメイカー・佐々木俊一が次々とヒットを放つ。

灰田勝彦が、甘いヨーデルをいかした「アルプスの牧場」、野球人気を煽つた「野球小僧」、テイチクからビクターに移籍した淡谷のり子が歌つた「白樺の小径」もヒット。




佐々木俊一メロディーの傑作「高原の駅よさようなら」は小畑実のビクター復帰を記念するヒットに。

テイチクでは、「女バタやん」の異名をとる独特のバイブレーションで歌ふ菅原都々子の「連絡線の歌」がヒット。




コロムビアでは、藤山一郎が気品と品格のある流麗なテナーで「ニコライの鐘」、「丘は花ざかり」を歌ひあげた。ラジオ歌謡では伊藤久男の抒情歌「山のけむり」が好評を博す。




ジャズの黄金時代は1955年まで。

1956年、エルヴィス・プレスリーの登場でメジャーシーンは、ロックに塗り替へられる。








by ichiro_ishikawa | 2018-11-19 08:22 | 音楽 | Comments(0)  

連載 日本ジャズ史(8) 1920-30年代 服部良一


服部良一

1907年(明治40)年10月1日大阪生まれ。ジャズを基本にブルース、ルンバ、タンゴなどを日本の流行歌に取り入れた、日本のポップス歌謡の創始者。古賀政男が晩年において演歌の源流へとスタンスを代へたことに対して、服部良一はジャズのもつバイタリティを最後まで持つといふ己のスタンスを最後まで維持した。

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1923年(大正12)9月1日

道頓堀のうなぎ料亭「出雲屋」が太左衛門橋南ぎわ、カフェー赤玉の真ん前にある「角屋」といふ支店のレストランで少年音楽隊を結成。入隊式。


1925年(大正14年)5

出雲屋少年音楽隊が解散。松竹座オーケストラに参加。

同年6月に大阪放送局がラジオ放送を開始、すぐに局内に大阪フィルハーモニーオーケストラを結成。当時人気の出始めてゐたジャズ音楽の放送のために、内職ジャズバンド(NSジャズ・バンド)が放送用に結成され、服部良一らカフェエ、ダンスホールで演奏してゐた楽士たちが集められ臨時編成のバンドが出演して演奏した。


昭和に入るとレコード会社で仕事をするやうに。


1929年(昭和4)年頃

コッカレコード(国歌レコード製作所)でサクソフォンと編曲を担当。タイヘイ・レコード(1924年(大正13)に西宮市今津山中町で設立された合資会社内外蓄音器商会が前身。商標は金色で、昭和五年頃に当時の大日本麦酒株式会社の社長令息が経営を担当して社名が太平蓄音器会社に社名変更)の専属に。

タイヘイ・レコードでは古賀メロディの「酒は涙か溜息か」をもじった「酒は涙よ溜息よ」(作詞:英はじめ)の作曲を会社から命令され、抗議をしたが、旋律は服部のオリジナルでよし、会社のために吹き受けてくれと説得され、1932年(昭和7)1月、新譜で発売。


1933年(昭和8)年8月26日

ディック・ミネの助言もあつて東京へと上京。菊地博がリーダーとなっていた人形町のダンスホール「ユニオン」のバンドにサクソフォン奏者として加はる。


1934年(昭和9)年2月

東京進出をはかつたニットーレコードの音楽監督に。作曲家としての仕事も本格的に。


1936年(昭和11)年2月

大手コロムビアレコード(コロムビア・ジャズバンド、川畑文子、リッキー宮川、淡谷のり子、中野忠晴など)の専属作曲家に。

入社第一回の作品が淡谷のり子が歌う「おしゃれ娘」(作詞:久保田宵二/作曲:服部良一)。



やがて、淡谷のり子が歌う「別れのブルース」(作詞:藤浦洸/作曲:服部良一)で一流の作曲家の仲間入りをはたす。


当時、ソプラノのハイポジションで外国系のポピュラー曲を歌っていた淡谷に、アルトの音域で歌つてもらひブルースの情感を表現することに成功。

ブルースのみならず、つねに外国のポピュラー音楽のフィーリングを用ひてそれぞれのジャンルで和製ポップスを創作。軍国主義といふ制約された音楽環境において国際色豊かな音楽を創造した。


1944年(昭和19)

上海に渡り、李香蘭を満州から呼び、黎錦光の「夜来香」をシンフォニック・ジャズにした「夜来香幻想曲」を創作。歌謡曲においては感傷的なブルースの傑作「湖畔の宿」、「小雨の丘」、雄大な中国の抒情を歌った「蘇州夜曲」、モダンな余韻を感じさせる「一杯のコーヒーから」などヒットソングを生み出す。



戦後

ジャズの破壊力から豊かなロマンチシズムまでブギのリズムを日本の流行歌に取り入れ開花させた笠置シヅ子が歌つた「東京ブギウギ」、一方では、戦後の息吹を伝え日本人が最も好む歌謡曲、藤山一郎・奈良光枝が歌った「青い山脈」を創作。





by ichiro_ishikawa | 2018-11-18 14:45 | 音楽 | Comments(0)  

連載 日本ジャズ史(7) 1920-30年代 菊池滋弥

菊池滋弥

1903年(明治36)京橋生まれ。慶応幼稚舎から慶応大学に進学してピアニスト、学生ジャズバンドのリーダーとして活躍。1919年(大正8)に貴族院議員の父菊池武徳に随行してワシントンに滞在した後、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコなどを訪れ翌年帰国。この渡米中に、オリジナル・ディキシーランド・ジャズバンドのレコードを買つたり、実際の演奏を劇場などで聴いてその魅力にとりつかれる。

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1924年(大正13)

ジャズの教則本を収集するために二度目の渡米をしてかなりの資料を持ち帰つた。そして、慶応の同級生でジャズを研究してゐた、男爵益田太郎の子息たちと知り合ひ、ドラム、ピアノ、バンジョー、トランペットなどをそれぞれ習得していた克信、義信、智信、貞信ら兄弟と品川御殿山の益田邸に集まりジャズに取り組むやうに。


1926年(大正15)

日系二世の堂本誉次(tp)が来日。彼は「カジ」という愛称で呼ばれ、トランペット、ピアノ、編曲に優れた才能と感性をもつてゐた。その堂本が益田家と親しかった関係から益田兄弟にジャズの指導をおこなひ、ジャズバンドを作るやうに促す。古賀郁夫(sax)、紙恭輔(sax)、福井孝太郎(vln)、高橋宣光(dr)ら慶大生が集まり「カレッジアンズ・ジャズバンド」を結成。


1927年(昭和2)頃

政友会の代議士の高橋光威の息子高橋宣光が、本格的なジャズバンドを作らうと菊地滋弥に提案し、慶応の校旗にちなんで名付けられた「レッド・エンド・ブルー・ジャズバンド(Red and Blue Jazz Band)」が始まる。

高橋がマネージャー格で、堂本は家業の貿易商が多忙となり、菊地滋弥を中心に活動するやうになつた。


1928年(昭和3年)1月16日

「レッド・エンド・ブルー・ジャズバンド」は日本橋の三越劇場で演奏会を開く。1928年から1929年にかけて、ニッポノホンとコロムビアに18面のレコード録音を行なふ。

また、ハワイ生まれのアメリカ人、アーネスト・カアイが来日して、菊池たちのバンドと親しくなり、彼らもカアイの指導をうけるようになる。カアイはサックス、トランペット、ピアノ、ギター、ウクレレ、琴、三味線まで、あらゆる楽器をこなした。


1928年(昭和3年)6月23日

青山の青年会館で菊池たちレッド・アンド・ブルー主催、アーネスト・カアイをゲストにジャズ演奏会。



by ichiro_ishikawa | 2018-11-18 14:40 | 音楽 | Comments(0)  

連載 日本ジャズ史(6) 1920年代 ダンスホール

昭和モダン・ジャズの王国 《ダンスホール》


1927年(昭和2年)5月

東京八重洲口の「日米ダンスホール」が日本郵船ビル五階(当時は日米信託ビル)にオープン。フィリピン人によるアルカンタラ・ジャズ・バンドが出演。


1928年(昭和3年)

人形町の「ユニオン」、大阪のユニオン系のホールが朝日舞踏場を買収してダンスホールに。

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1929年(昭和4年)8月

赤坂溜池の「フロリダ」開場。とりわけ豪華な設備を誇り、俳優、音楽家、画家、ジャーナリストら当時の尖端をいく人間が溜まる。翌年、津田又太郎が支配人になつてから彼の独創的アイディアと見識によつて隆盛を極める。バンド・ステージにも工夫が凝らされ、音響効果を上げるためにオーケストラがホール真正面に移りフロリダのシンボルともいふべき大きなシャコ貝を型どつた飾りをバックに演奏するやうに。

昭和五年、菊池滋弥の「菊池&ヒズ・カレッジアンス」が昼のステージに出演。生バンドが呼び物に。

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http://ozsons.jp/EarlyTimeJazMenInJapan.htm



昭和のジャズ・エイジの発展場「フロリダ

「フロリダ」では、ステージ上部にはバンド名をアルファベットで書き込んだ幕を張り、中央にはピアノを置いた。そして、学生らしい陽気さと若さで、同ホールの夜に出演していたジョース・ハワイアン・セレネーダスよりも人気を博した。


1930年(昭和5年)の秋には、「フロリダ」では本場のバンド招聘が実現。ウェイン・コールマン・バンドがステージに登場。


1931年(昭和6年)1月24日の夜、ウェイン・コールマン・バンドとフィッシャー・バンドが競演。フィシャー・バンドは豪華船ベルゲンランド号の専属楽団。コールマン・バンドがダンス・バンドに対して、フィッシャー・バンドは、ヴァイオリン、サックス二つ、トランペット、リズム隊三といふ七人編成のシカゴ・スタイルのジャズバンド。 

軍配はフィッシャーに上がった。《タイガーラグ》のスペシャル・アレンジでテナーのアドリブソロ、随所にみられたトランペットの繊細なアドリブ、アクション入りの派手なドラムソロ、しかも、バンドたちがメガホンをもって「ホールド・ザ・タイガー」と絶叫。その間フィッシャーの曲芸もどきのヴァイオリン・ソロなどが大受けして勝敗が決した。


昭和のジャズ・エイジの発展場「フロリダ」は、外国にも紹介されるようになり、ジャズのリズムでまさにステップ、スッテプ、ダンス、ダンスで興奮の坩堝となっていたのである。


1932年(昭和7)8月6日未明、フロリダ焼失。しかし、津田氏のホール復興への凄まじい熱意なより驚異的なスピードで新生「フロリダ」が秋に復活。再び華やかなステージが展開した。


1933年(昭和8)

不良華族事件(ダンスホール事件)。華族恋愛・不倫事件が発覚。上流社会に属する女性らが関わる性的なスキャンダルとして主要新聞に報じられ、登場人物には伯爵夫人や大病院の院長夫人なども含まれていたことで当時広く世間の耳目を集めた。

斎藤茂吉の妻輝子もこの事件で長期別居に発展。

かのやうに文学史ともリンク。

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by ichiro_ishikawa | 2018-11-17 13:13 | 音楽 | Comments(0)  

連載 日本ジャズ史(5) 1920-30年代のレコード業界


日本のレコード界の構造変革

すでに、1925年(大正14)、アメリカでは蓄音機の録音にマイクロフォンの使用が始まつてゐた。4月にはビクター、コロムビアは5月、6月になるとイギリスのグラモフォンとコロムビアもそれに追随した。

やがて、外国資本が日本のレコード会社に導入され
昭和モダニズムという合理的消費文化に対応する音の大衆化のため、日本のレコード産業も電気吹き込みへと構造が大きく変はつた。



日本蓄音機商会〜コロムビア

1927年(昭和2)2月

日本蓄音器商会は、ギングガムという録音技師を米コロムビアから招き、港区内幸町の幸ビルにあつた日蓄吹き込み所に録音機を設置。

5月イギリスのウエスタン式電気録音機に変更。その技術提携を条件に英コロムビアに35.7%の株式を譲渡。強力な資本提携が生まれた。 

10月、日本蓄音器商会の総株式の11.7%を米コロムビアに譲渡。


1928年(昭和3)1月

日本コロンビア蓄音器株式会社が設立。鷲印のニッポノフォンからColumbiaにマークが変更。同年4月には、英国コロムビア式電気録音機に改めた。


1929年(昭和4)

コロムビア社長、H・ホワイトのすすめで「コロムビア・ジャズバンド」が結成。


1930年(昭和5)

アメリカ留学に旅立った紙恭輔の後任で井田一郎が編曲・指揮者としてコロムビアに入社。作曲・編曲に腕を奮ふ。1931年(昭和6)年 から1932年(昭和7)にかけてのジャズ・ソングは彼の手によるものが多い。


ビクター

1927年(昭和2)9月

米ビクターの資本によって日本ビクター蓄音機株式会社が成立。ビクター・トーキング・マシン社の全額出資。

発足と当時に電気吹き込み装置を完備。最初の吹き込み所は、丸の内の馬場先門の三菱九号館三階にあつた赤煉瓦の建物。


1928年(昭和3)

「日本・ビクター・ジャズバンド」を井田一郎を中心に結成。



by ichiro_ishikawa | 2018-11-16 23:43 | 音楽 | Comments(0)